よくある質問 

Q.  仏壇に供える線香は何本立てればよいのでしょうか?

A.  これは月参りなどに行くと、しばしば質問されることです。

【月参り : 大阪や兵庫県の一部で行われている慣習で、
月に一回檀家さんのお宅に伺ってその家の仏壇を拝みます。】

 基本的には、線香は何本立ててもかまいません。
一本じゃないとダメだとか、二本は絶対にいけないとかそんなことはありません。
何本でもかまいませんが、あまりたくさん立てすぎると煙がたくさん出て困りますから、
その辺は適宜ということで良いのではないでしょうか。

 たいてい、お坊さんは三本立てることが多いようです。
また、葬儀の後、49日の間は慣習的に一本線香を
立てることになっていますが、
必ずそうしなければならないということもありません。
また、そうしないと亡くなった人が化けて出るとか、
地獄に落ちて苦しむとかそういったことも一切ありませんので、
ご安心ください。

49日の間(中陰と言います)に何故一本だけ立てるのかというと、
これはあくまで私の推測ですが、迷わず成仏する為に一本だけ立てる、
つまりあの世への一筋の道のみ(一本道)を象徴しているのでしょう。
 因みに、私が仏様を拝む時はやはり三本立てます。

東洋では(ほとんど中国の思想)奇数を喜び偶数を避ける、
ということが行われています。
これはなぜかというと、偶数は二で割ることが出来るからです。
つまり一つのものが割れるということを忌むらしいです。
そこで、線香を立てる時にもやはり奇数を用いるということが
行われているのだと思います。

1・3・5・7・9などを用いるのでしょうが、
線香を立てる時に、五本や七本そして九本では多すぎます。
また、一本では何か線香をケチっているようで少なく感じるので、
結局三という数を用いるのでしょう。

 その他に考えられる理由としては、易などの思想から、
数字の「三」は天地人の三才を表し、
これを萬物を生ずる数、即ち「生数」といって尊びます。
このように「三」という数は吉祥なので、
これを用いるという事になったのかもしれません。

また、理屈をつければいくらでも考えることが出来るでしょう。
例えば、三本は我と仏と衆生を象徴するとか、佛・法・僧の三宝に供養する為とか、
三という数に因んでこじつければ、いくらでも案出することが出来ます。

 ですから、一般の方が家庭等で仏壇に線香を上げる時は
一〜三本をあげれば良いと思います。


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Q. 真言宗の仏壇のまつり方は?


A.  真言宗の仏壇を語る前に、
仏壇というものを誤解しておられる方が多い様に思いますので、
仏壇という物について少し述べてみたいと思います。

 さて、仏壇とは読んで字の如く「仏の壇」
つまり「仏様をお祀りする壇」のことです。
神様を祀る棚のことを神棚というのと同じです。

ここでいう仏様とは、先祖や亡くなった人達の靈のことではなくて、
修行して悟りを開き、六道輪廻を解脱(げだつ)した聖者(超越的存在)
のことを指しております。

【「死んだら皆、仏になる」とか、「迷わず成仏する」とか言う時の
仏については別の項を設けて解説させていただきます。】

 ですから、「仏壇」と言う限り、先祖をお祀りするのが第一義ではなくて、
仏様をお祀りし供養するのが第一義であるべきなのです。
先祖の供養は第二義でしょう。

というよりも、仏壇に位牌を置かせていただいている
という風に解釈した方が良いかもしれません。
「仏壇」と言って「位牌壇」と言わないのが何よりの証拠です。

つまり仏壇とは、仏様をお祀りするという点ではお寺と同様のものであり、
お寺のミニチュア版であるとも言えるかもしれません。

じゃあ、何故仏壇に先祖の位牌を置いて先祖の供養をしているのでしょうか?

【もしかすると、皆様の中には、仏様の供養なんかどうでもいいが、故人や
先祖の供養は大切であると考える方もいらっしゃるかもしれませんが…。】

 それは何故かと申しますと、
亡くなった後、葬式(仏式)などの儀式を経て仏門に入った先祖や
亡くなった人達の修行や功徳力の拠り所となるのが
仏様であるからなのです。

一般的に、お寺にお願いして先祖の位牌を置いて
供養してもらったりする事があるのと同じだと思います。

ですから、仏壇に故人や先祖の位牌を置くのは、
故人や先祖の靈が仏門にあるということを示すとともに、
その仏道修行を加持護念し、故人の善根や福徳を増したり、
教化救済していただく為である、ということが言えるでしょう。

これを簡単に言うと、仏様に先祖を教化救済していただく為に、
故人や先祖の霊に擬せられる位牌を
仏壇の中においているということなのです。

 元々位牌とは中国の儒教や先祖崇拝などから来ているもので、
インドに興った仏教には無かったものですが、
先祖供養を尊ぶ風習や文化的背景のある、
中国・朝鮮を経て日本に伝来した大乗仏教には
当初から組み込まれてしまっていたものだったのかもしれません。

以上のことからお解りいただけると思いますが、
仏様を供養するという行為によってこそ、
仏様に託した(お願いした)故人や先祖の為に
貢献することが出来るということなのです。

発想としては、卑近な例で申し訳ありませんが、
例えば有名大学に入学し、将来を嘱望される息子や娘がいるとします。
親としてはその指導教授などと連絡をとり、信頼関係を築き、
個人的にも付き合いを深め、いろいろとお願いしたり、
お中元お歳暮を欠かさずに届け、
いろいろな便宜を計ってもらうのと似ているかも知れませんね。

さて、それでは上記の事をご理解いただいた上で、
真言宗の仏壇の祀り方を説明していきたいと思います。




先ず、仏壇の構造は段段になっており、一番奥が高くなっております。
仏壇の大小によって段段の数も違うかもしれませんが、
普通は三段〜四段ぐらいになっているでしょう。
その一番奥の高いところが仏様を安置する場所です。
中央が本尊、その左右が脇侍(わきじ)の尊です。

因みに脇侍の尊は、
本尊から見て右側(仏壇に向かって見て左側)の方が位が上です。
よく「右に出る者はいない」などと言われるゆえんです。

一般的に、真言宗の仏壇では中央に大日如来を安置します。
仏像は掛け軸でも尊像でも構いませんが、出来る範囲で良い御像を調えましょう。
次に、向かって左側には不動尊、右側には弘法大師を安置します。

【 もちろん、ご自分の尊崇する仏様を本尊として安置しても
何ら差し支えはございません。例えば、不動尊を信仰なさっている
方なら不動尊を、地蔵尊を信仰なさっている方なら地蔵尊を、
観音様を信仰なさっている方なら観音様を本尊として
中央に安置されても構いません。 】

さて、その仏様を安置してある、一番高い段の所には、
何か手すりのような物が設置してありますね。
これは俗に「結界」と言い、
聖なる世界と俗なる世界を分けている物であります。

真言宗のお寺などにお参りした経験のある方ならご存知だと思いますが、
その本堂に入ってみると、
一番奥の御本尊を安置してある壇(須弥壇)や
坊さんが拝む為の壇がある区域と、一般参詣人が参拝する場所は、
手すりのような物や帷、または格子状の扉などによって分けられているはずです。

この手すりや格子状の扉のような物も結界と言い、
その内側を内陣(ないじん)、外側を外陣(げじん)と言います。
結界によって仕切られた内陣は聖なる世界であり、
外陣より外は俗世と言うことになると思います。

という訳で、結界の内側は仏様の聖なる世界と言うことになりますから、
仏壇でも、一番上の段の結界より内側は、仏様の領域になります。

一般には、先祖に供える物と仏様に供える物が
いっしょくたになってしまっている場合が多い様ですが、
出来れば、仏様に供える佛飯とお茶湯、先祖に供えるご飯とお茶湯は
分別してお供えした方が良いと思います。
(なお、ご飯とお茶湯の位置は左右どちらでも良いです。気にしなくても大丈夫です。)
と言っても、仏壇のスペースは限られたものですから、
供物を完全に分ける事は不可能です。

出来れば、仏様にお供えする佛飯やお茶湯などはこの結界の内側に置き、
その他の果物や菓子などは、結界の外にお供えする時に
心の中でこれは仏様に、これはご先祖様にと念じてお供えすれば
それで良いと思います。

また、ご先祖などの位牌は当然結界の外に安置し、
その付近ににご飯やお茶湯を置けば良いでしょう。

さて、花やローソク立て、香炉(線香立て)等の配置ですが、
上図の如く置いていただければそれでいいです。
また、スペースが足らなくて花とローソク立てを一つづつ置きたい時には
左燈右華(さとううけ)と言いまして、本尊様の方から見て左側に灯火を
右側に花を置く事になっております。
(向かっては逆になります。当然の事ですが…。)

【 余談ですが、この様に仏壇などを飾り付ける事を「荘厳」(しょうごん)と言います。 】

また、打ち鳴らしの金等をよく仏壇の中においてあるのを見ますが、
掃除のときなど、仏壇を閉じてかたづけてしまう時はそれでも良いですが、
普段仏壇を拝む時などには適当な位置に出しておいた方が良いと思います。

それから、仏壇の前には「経机」を置いてあるご家庭がほとんであると思いますが、
「経机」とは読んで字の如く、仏様を拝む時にお経本を置く為の物ですから、
この上には線香立てやローソク、打ち鳴らしやマッチなどは
置かない方がよいでしょう。経本専用です。数珠ぐらいは構いませんが…。

因みに月参りなどに行きますと、
大抵のお宅の経机の上には、線香立てや打ち鳴らしの金、
ローソク立てやマッチ等が偉そうに場所を占めており、
一番大事な経本を畳の上に置く事になり、
悲しい気持ちが湧いてきます。

でも、たまたま経机の上に何も置いてない家に行くと、
たいへん気持ちが良く、余計にお経を拝んだりしてしまいます。

真言宗の仏壇の祀り方としては大体上記のような形になると思いますが、
絶対にこうでなければならないということではありません。
最も大事なのは真心を込めて出来る限りでお祀りをするという事です。
いくらお金をかけた立派な仏壇であっても、
また形や儀則にのっとった祀り方をしていても、
そこに祀り手の真心が籠っていなければ、
仏様はお喜びにはならないと思います。


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Q. 何故戒名が要るのでしょう?


A.  一般に、戒名とは死んだ時にお坊さんにつけて貰うものだと
思われている方が多いかもしれませんが、
生きている時につけてもらっても、何の差し障りもありません。

それどころか、お坊さんでなくても仏道修行を志すような方は、
出来るだけ早く大きな寺院(総本山)などで、在家の得度をし、
戒(五戒)を授かって戒名を貰った方が良いのです。
なぜなら、そうする事によって仏道修行をするにあたって
仏様の加持力や守護を得られるからです。

もうお分かりですね。戒名とは、仏教に入門したときにつけてもらう新しい名前です。
この戒名をもらうという事は、仏教の法門に入り仏教信者となった、というしるしなのです。
ですから、お坊さんなどは得度式の時にこの名前(戒名=僧名)を貰います。

では、何故死んだ人に戒名を付けなければならないのでしょうか?
それは、実はお葬式とは得度式であるからなのです。
つまり、亡くなった方を仏教に帰依させ、得度させて仏道に引入するのです。

また物の本によると、仏教には出家者が出家者の為に
お経をあげて供養するのは構わないが、在家の人の為に
葬儀に関わってはならないという戒律があるという事です。

それ故に、亡くなった方を供養する為には、
どうしても仏教の法門に帰依していただく必要があるというのです。
仏教の出家修行者となれば、坊主も安心してお経をあげて供養できると言う訳です。

真言宗の戒名には、〇〇院○○○○居士とか、○○院○○○○大姉とか、
○○○○信士、○○○○信女、○○○○禅定門、○○○○禅定尼等々
いろいろありますが、○○院と言うのを「院号」と言い、
院号の下の○○の二字を「道号」と言います。
居士や大姉、信士信女の上の二字が「戒名」と呼ばれるもので、
本当はこれだけで良いのです。

坊さんなどはこの二字しかありません。
もちろん、二字だけでは寂しいので、○○僧正とか○○僧都とか○○律師などというように
位をつけて名前を呼んだり、○○和尚などと言ったりする事がありますが、
基本的には、○○と言う戒名の二字だけがその人の名前です。
別の言い方で比丘○○とか比丘尼○○、沙門○○等と自称する事もあります。

在家の信者の方の一般の戒名には信士信女を用いるのが普通のようです。
院号についてはあとの項目で説明しますので、ここでは省きます。

さて世の中には、お金を出していい戒名を付けてもらえれば、
極楽へ往生できるとか、良い所へ生まれ変わる事が出来るなどと
本気で考えている人は少ないと思いますが、
漠然と、「いい戒名を貰えればなんかいい事があるのでは?」
ぐらいに考えている方が結構いるのではないでしょうか?

ここではっきり言っておきますが、
戒名を貰うという事は、仏道に帰依したしるしであると言う事と、
仏道を修行するに当たって、仏様のお導きや加持をいただけると言う事以外には
何の効力ももちません。(実はそれはそれで本当にすごい事なのですが…。(^^)b)
それ以上でもそれ以下でもないわけです。本当に、ただの名前なのです。

ですから、戒名に優劣がある訳はないので、
坊さんに高いお金を払って、良い名前を付けて貰っても、
「あぁ、良い名前だね。」と言うだけで何の効果もありません。
もちろん、仏法僧の三宝に帰依し、供養すると言う観点から言うと、
供養したと言う点では何かしらの功徳はあるかも?

でも、私だったら、その分ユニセフや赤十字に寄付したり、
貧しい国や災害に見舞われた国に援助したり、
貧しい人や困った人を助けるのに使ったりしますけど。
その方がきっと功徳(良い所へ生まれ変われる力)があると思います。(;^_^A
もちろん、伽藍を復興する資金に供出したり、寺院の仏具を調えたり
する為に提供すれば、それなりの功徳はあると言う事は否定しません。

その他に、タイやスリランカ、台湾などの厳格に戒律を守って生活している
お坊さん達に食事を供養したりするのもいいですね。
彼らは福田です。

以上、戒名とはそういうものなので、出来れば生きているうちに貰っておいて
生きている間に仏道修行をはじめましょう。
死んでから始めて出遅れるよりいいと思いますので。

「やる事がなくて毎日が退屈だ」などと言っている人で、
少しでも仏教に興味がある人ならば、是非そうしてください。


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Q. 葬儀の次第はどのようになるのですか?


 A.  葬儀の次第は、枕経、通夜、告別式(葬式)、斎場(火葬場)、
骨揚げ、初七日です。ここまでで一応のひと段落です。
現代ではほとんどがシステム化されていますので、
葬儀屋さんに任せておけば、スムースに運ばれていくでしょう。

さて、誰かが亡くなった場合、
まず檀那寺(自分が檀家になっているお寺)へ電話で知らせます。
その時には、亡くなった方のお名前、生年月日、
亡くなった時間等を慌てず正確に連絡しておきます。
次に葬儀屋さん等に連絡して来てもらい、枕経の準備をしてもらいます。

枕経の前に亡者(亡くなった方の事、以下亡者とする。)の両手を
胸の前で十指を深く組み合わせて、組ませておきます。
その他の事は葬儀屋さんに任せておけばいいでしょう。

後は坊さんに来てもらって枕経を読んでもらいます。
恐らくその時に末期の水を亡者の口に灌ぐ作法を
教えてくれると思います。

通夜は大体枕経の翌日に行う事が多いですが、葬儀が友引に重なるなど、
諸般の事情から同じ日の夜に行われる事もあるようです。
そうすると、かなり忙しいので普通は枕経の翌日に行います。

通夜は大体夜の7時から行うところが多いですが、
まれに6時ごろからはじめる所もあるようです。
通夜は坊さんにお経を読んでもらった後、親族などが集まり
食事を共にしながら、故人の思い出などを語り明かします。

通夜の翌日が告別式です。告別式=葬式です。
大体午前11時、12時または13時ぐらいに開始する所が多いでしょう。
そうでないと、火葬場に行くのが遅くなってしまいますから。

当日、式の時間となり全員着座の後、僧侶が入場して、式が開始されます。
この葬儀の意味などについてはまた別のページなどで紹介しますが、
ここでは式の次第のみを列挙するにとどめます。

僧侶が着座したらいよいよ儀式が始まります。
私がよく見るやり方は、まず導師が三禮をした後、
洒水加持をして引導作法をし、亡者に引導を渡します。
その間に脇僧が讃(声明)を唱え、終わると鉢(シンバルみたいなもの)を突きます。
ここまでが一段落で、その後弔辞弔電が披露され、
それが終わると読経に入ります。

読経に入ってから、葬儀の進行役に促されて親族の焼香となります。
故人に最も近い者から順番に立って、用意された焼香台の所へ行き、
焼香し合掌して故人の冥福を祈ります。
このときに焼香を何回するのかとよく聞かれます。
本当は何回でも良いのですが、普通は三回ぐらい行う事が多いです。

やり方は、御香を指先でつまんで一度額の辺りまで戴いて、
炭の上に静かに落とします。
これを三回繰り返してから、合掌して故人の冥福を祈ります。

さて、親族の焼香が終わると、今度は故人の友人知人など親交のあった人々、
一般の参列者の順で焼香が進んでいきます。

続いて僧侶の読経が終了し、僧侶が式場を退出して葬儀が終了となります。
その後、お棺を開けて花を入れたり、写経を入れたりして、
故人と最後のお別れをし、お棺に釘が打たれます。

次に出棺です。霊柩車で葬儀場を出て斎場(火葬場)に向かいます。
火葬場では僧侶の引導で簡単な読経があります。
この読経中に、焼香したり故人の顔を見たりして、本当に最後のお別れをします。

お棺が炉に入ったら、斎場の職員が「何時何分にお骨が揚ります」と
知らせてくれる(大体2時間半ぐらい)ので、その時間通りに斎場へ集合して、
親族一同で故人のお骨を箸で拾って骨壷に収めます。

次に、お骨を葬儀場もしくは自宅に持ち帰ります。
そして、すぐにお寺へ連絡して僧侶に来てもらい、骨揚げのお経をあげてもらいます。

最近では、この時に一緒に初七日のお経も併せて拝んでもらう事が多いようです。
と言うのは、故人が亡くなってから葬儀まではほぼ三日が経過しており、
また七日参りは御逮夜といって前日に拝みますので、
実質的には四日が経過している事になるので、まとめてという考えのようです。
正式にはちゃんと骨揚げと初七日は分けた方が良いとは思いますが、
親族の疲労や心労を考えると、早めにまとめて済ませておくのも
思いやりかもしれません。
ですから、葬式の当日は告別式、斎場、骨揚げ初七日と、
結構忙しい事になります。

上記は真言宗の、それも大阪で行われている一例です。
決してこれが決定版であるということではありません。
また、他宗については全く解りませんので、
真言宗以外の宗旨の方は各檀那寺へお問い合わせください。


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Q. 院号はどうして高いのでしょう?


A.  さて、ここでは戒名の項の説明を既に読んでいただいた
ということを前提で話を進めていきますので、
まだそちらを読んでない方は一度目を通しておいて下さい。

昔、院号というものは滅多にもらえるものではありませんでした。
何故なら、院号とは寺院などに堂宇を建立したり、
多額の寄進をして寺院の復興などに援助をした方に
その功徳を讃える意味で、亡くなった後に寺院から出したものだったからです。

その為に院号(ひとつの寺院を建立するぐらいの功徳)という名称なのでしょう。
つまり、寺院に対して一つのお寺を建てるぐらいの寄進をした人であって初めて
付けてもらえたものなのです。
ですから、院号料とは寺院に多額の寄付をした印であると言っても良いでしょう。

最近では、かなり多くの方々の戒名に院号がついているのを見かけますが、
本来は非常に希少なものであった事をご理解ください。
よく「両親に院号がついているから院号をつけてくれ。」とか、
「先祖代々、院号がついているからお願いします。」
などという理由で院号をつけてもらいたいと言うのを耳にしますが
そういう人は、坊さんの言うとおりの院号料を支払ってつけてもらえばよいのです。
これはただの見栄に過ぎないと思います。

院号料が高すぎるなどという話をよく聞きますが、
昔に院号をもらっているような方は
それ相応の高額の寄付をしているからこそ、院号をもらっているのです。
その為、寺院としても昔に院号を出した人と釣り合わせる為にも、
それ相応の寄付をしていただくという気持ちで
高額の院号料を要求しているのだと思います。
ですから、院号は高くて当然なのです。
だって昔は寺院ひとつ建立するぐらいの財を寄進したのですから。
また、そういう人は院号をもらうつもりで寄付をしたのではないと思います。

もともと寄付や寄進は施主の自由ですから、
寄付をするのが嫌だったり、経済的に余裕がない場合には
しなくても良いですし、強制されるものでもありません。
前出の戒名の項でも述べたように、院号がついているという理由で
死後に良い所へ生まれ変わる事はありません。
戒名とは単なる仏道修行者の名前に過ぎないものですから、
普通の信士信女で何の差し支えもありません。

ほとんどの坊さんはこういう理屈を分かっていますので、
「是非、院号をつけなさい。院号をつけないと成仏出来ませんよ。」
などという事を言う不謹慎な坊さんはいないと信じますが、
もし、そういう理不尽な事を言うお坊さんがいても、
「いいえ、うちは普通の戒名で結構です。」と言って断ればよい訳です。


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 Q. 引越しにともなって仏壇のお性根抜きが
      必要と聞いたのですが?


A.  真言宗では、新しく仏壇を造作したり、購入したときには必ず開眼供養を行います。
そして、その時に仏壇を結界する作法も開眼供養に付随して行うことが多いのです。
これは仏壇をミニチュアのお寺と考えるならば当然のことでしょう。
障碍をなす悪意あるものを入らなくさせる為に行うのですから。

さて、結界は目には見えないものですが、作法としては「地」と言いまして、イメージの
杭を打ち込んだり、「金剛墻」と言ってイメージの柵のようなものを四方に張り巡らせたり、
「火院」と言ってやはりイメージの炎の壁を張り巡らせたりするのです。
丁寧に修法をされる坊さんなら、もっと手の込んだ結界をすることもあると思われます。
で、一応これらはその対象物が不動のものであると言う前提に行われますので、
一度結界したものは必ずその結界を解いてからでないと動かせないという訳です。

もし、その坊さんが法力の強い人であれば、
結界を犯したことによって何らかのダメージを受けることがあるかもしれません。
(まぁ、現代においてはそのような法力の優れた坊さんは滅多にいないので、
ほぼその心配はないですが…。私のなどもヘナチョコですから心配ないです。(;^_^A )

という訳で、引越ししたり仏壇の位置を変えたりするときには、必ず事前に
坊さんを呼んでお性根抜き(撥遣)してもらい、解界(結界の反対語)してもらってから
動かすということが慣習的になっています。

仏壇を本当に大切なものと考えるならば、
そして真言密教の法を尊ぶという気持ちがおありならば、
やってもらっておいた方が良いでしょう。
因みに撥遣や解界は簡単なので、月参りのついでなどにやってもらえば良いですし、
お布施も普段+α(少額)で良いのでは無いかと思います。
また、開眼供養は一度虚空に帰られた仏様を再度勧請奉るのですから、
それなりの飾り付けや、供物を調える事が必要です。
詳しくは檀那寺の坊さんに相談してください。それぞれのやり方が
有るでしょうから、ここでは詳しく述べません。


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 Q. 遠くへ引っ越しますが、お寺と檀家の
   関係はどのようになりますか?


A.  もし、お寺にお墓があるならば、そのお寺との縁が切れることはまずありません。
常識的に考えても、先祖代々のお墓を管理してもらっているわけですし、
お彼岸やお盆の時にもお墓参りをするわけですから、
挨拶をしない訳にはいかないでしょう。

従って、葬式や法事などの必要があるときには、
まず第一番にそのお寺に声をかけなければならないと思います。
ただ、そのお寺から、「とても遠くて行けないので、
引越し先の方でお寺を見つけてお願いしてください。」という
話があれば、引越し先でお寺を探してお願いすることになります。
というか、大概はそのお寺が引っ越し先付近のお寺を紹介してくれると思います。
狭い世界ですので…。

さて、檀那寺にお墓が無い場合ならば、全然身軽です。
まず、一般的にお寺と良好な関係もしくは普通の関係を持っているならば、
引越しに先立ってお寺(檀那寺)に相談してみてください。
おそらく引越し先付近でのお寺を紹介してくれると思います。
ただし、万一お寺(檀那寺)との関係がまずくなっている場合、
その必要は全くありません。
引越し先に移ってからゆっくりと電話帳や口コミなどで探せば良いでしょう。
今までのお寺とは完全に縁が切れることになります。
(もちろん、引っ越しますという連絡ぐらいはしておきましょう。
いくら仲が悪くてもね。(;^_^A )


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Q. 在家勤行次第の実践について


A.  これについては修行のページで詳しく説明したいと思いますので、
そちらをご参照ください。


 Q. お経の読み方を習いたいのですが?
  (指導に伺います。お金はいただきませんが、要交通費)



A.  真言宗で、普段、勤行の時などに読まれるお経は、
理趣経、観音経、般若心経などがあります。
ただ、理趣経や観音経などは長いし、読み方も結構難しいので
在家の方にはあまりお勧めしません。
やはり在家勤行次第などに載っている簡単な経文をお唱えになるのが
一番いいのではないかと思います。

また、簡単な経文と言っても、般若心経や観音経の偈を
ちゃんと理解した上でお唱えすることが出来れば、
在家の方なら充分であると思います。

在家勤行次第の意味や読み方は修行のページで解説したいと思います。
いったいどのように読んだら良いのか皆目解らないので、
指導してほしいという方が居られるかも知れませんが、
そういう場合はやはり自分の檀那寺の住職などにお願いしてください。

もし、檀那寺の住職が忙しくてそのような暇がないといった場合に限り、
そして場所が大阪府内ならば、圓寂坊が指導に伺いますのでご一報ください。

その場合お願いしたいのは、人数を五人以上集めてほしいことと、
落ち着いて経文を唱えることの出来る静かな部屋を用意していただきたいということです。
お経の読み方をお教えするにあたってお金はいただきませんが、
その場所までの交通費はご負担ください。


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Q. お墓を移転したいのですが?


A.まず、お寺にお墓があって、それを別の墓地に移転する場合は、
そこの住職に相談すればよいと思います。
スムーズに事が運べるでしょう。

さて、普通の霊園などにあるお墓を
何らかの事情で移転する場合ですが、
その段取りは、

1.元のお墓の性根抜き 2.遺骨などの取り出し 3.新墓への納骨 
4.新墓の開眼供養 という段取りになります。

因みに1.と4.は、僧侶に連絡して作法をしてもらう必要があるでしょう。
そして、旧墓と新墓の距離が離れている場合は
それぞれ別々の坊さんを頼むことになります。
また、2.と3.は霊園関係の石屋さんなどに頼んでおけば
ちゃんとやってくれます。

お布施の金額で悩むことが多いでしょうが、お寺に直接聞くと、
大概、「お気持ちで結構です。」などと言われるのがオチですから、
石屋さんなどにお布施の相場は大体どれくらいなのかを聞けば
たいてい教えてくれます。


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Q. 古いお墓を整理したいんですが?


A.  お墓の移転の項で説明したのと大体同じような手続きになります。
つまり、1.古いお墓の性根抜き、
2.遺骨の回収(遺骨がすでに散逸している場合は
その墓の土を遺骨の代わりに用います。)、
3.遺骨の新墓への安置、4.新墓の開眼供養 という順序です。

また、移転する前には整理する古いお墓に詣でて
お供え物をし、読経してから、
移転についての理由や日時を先祖の靈にきちんと報告しておきましょう。
予告なしに引越しをさせられるのは誰でも嫌なものですから。


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Q. 法事の年回忌はどのようになるのでしょうか?


A.  年回忌の法事は、もともと中国の慣習から来ているようですが、
いちいち歴史的経緯を語ってもしょうがないので、
実際の法事について少々お話してみます。

さて、人が亡くなってから49日目に満中陰の法要を営みます。
もちろんこの間に7日ごとに供養は行われていますが、
49日はこの世からあの世へ旅立つ区切りの日として
重要視されているようです。
ですから、49日の法事は坊さんを呼んでお経をあげてもらい、
かなり盛大に供養を行います。

次は百か日、一周忌、三回忌、7回忌というように、
百日後、一年後と間隔がだんだんと離れて法事が
行われることになります。

また、三回忌は一周忌の次の年、
つまり2年目に行います。
注意しておきましょう。

後に続く年回忌は亡くなった年を入れて7年目、
13年目、17年目…、と続いていきます。
これを覚えるのが面倒な方は、3と7で覚えておけばよいでしょう。

三回忌の次は7回忌、その次は13回忌、17回忌、
またその次は23回忌、27回忌、33回忌…と続いていくのです。

俗に25回忌を行うのは、すでに亡くなってから20年以上経っているので
23回忌と27回忌をまとめて25回忌として行う訳です。
ですから、25回忌を行う時は23回忌と27回忌は省略されることになります。
ちゃんとやりたい方は23回忌と27回忌を行えばよいのです。

現代では33回忌が終わるとその次は50回忌へ飛びます。
昔は百回忌まで行っていたようですが、
今ではほとんどそこまではやっていないのが現状です。
(亡くなった人の百回忌まで参加できる親戚はほとんどいないでしょうね。(;^_^A )


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 Q. 修行したいのですが?


A.  圓寂坊の道場の方で初心からの解説を試みます。そちらの方をご参照ください。
なお、一応真言宗系統の修行を志すという前提でお話を進めてまいります。

また、何度も言うようですが、本格的な仏教の修行に入る前には
やはり得度受戒の儀式を経ておいた方が良いと思われます。
では、具体的にどういう方法を採ったらいいのか、以下に説明してみましょう。

まず、僧侶を目指すのなら寺院や本山に入門して、得度式を行います。
後は黙っていても自動的にコースが進んでいくでしょう。
その得度式ですが、元々「三師七証」と言って、最低でも十人のお坊さんを呼んで
儀式をする必要があるということなのです。
ですから、一人の為にこのような儀式を行うことになれば、
多額な費用がかかるので、現在では一人の為に得度式を行うということは
ほとんど無いでしょう。
(真言宗の場合です。(;^_^A 他宗はわかりませんので、悪しからず。)

そこで、各本山では集団得度という方式をとって行います。
高野山などは年に一回は行うようです。
実はかくいう私も26年ほど前、大学一回生の時に集団得度を受けた一人です。(;^_^A

さて、上に寺院や本山に入門して…と書きましたが、
実はそれまでが結構大変というか、縁があればスムーズに運びますが、
縁が無いとかなり苦労するかもしれません。

というのは、真言宗のお寺の檀家になっている家庭の生まれであれば、
檀那寺の住職に相談すればわりと簡単に事が運ぶのですが、
全然違う宗旨の方だと、恐らくまず何処かの真言寺院の住職と面識を得るところから
始めなければならないからです。

というのは、僧侶になる為には師僧と言って師匠になる坊さんが必要であったり、
保証人のような役割の坊さんも必要になるからです。
でも、全く面識の無い素性の知れない人の師匠や保証人になる
勇気のある坊さんは滅多にいませんので、
自分の人格や覚悟を認めてもらえるまでそういう話は切り出さない方が
良いかも知れませんね。

次に、在家のままで修行をしてみたいと思われる方は、
意外と簡単です。
例えば、高野山などの大きな本山では、一般在家信者の為に
得度・受戒など(ともに在家用)の儀式を執り行っておりますから、
各本山に電話で問い合わせて見られれば、
親切に日程や費用等を教えてくれることでしょう。

手始めに儀式の場を経験する為に結縁灌頂を受けられてみるのも
一法かも知れません。


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Q. 納骨は何時したら良いのでしょうか?


A.  納骨の為に特別に決まった時期があるわけではありません。
何時でもよいのですが、一般的には四十九日が終わったあととか、
百か日、一周忌、三回忌などを一区切りとして
納骨することが多いようです。

いついつまでに必ず納骨しないと祟りがあるとか、
そういうことは一切ありませんので、
もし、そういうことを言う人があっても気にする必要はありません。

ただ、個人的な意見を言いますと、
亡くなった後はお墓に入るのが当然の事でありますので、
故人との思い出や気持ちに整理がついたら、
お墓に納骨してあげるのが良いと思います。
人は土に返るのですから。


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Q. 古い位牌がたくさんあり、整理したいのですが?


A.  古い位牌を処分するには、
まず、「撥遣」と言って、お性根抜きを坊さんにやってもらう必要があります。
その後、お炊き上げすれば良いのです。

檀那寺の住職などに依頼すればすぐにやってくれるでしょうし、
処分する位牌もお寺に持って帰って焼いてくれるという所が
多いでしょうから、一番簡単な方法です。

ただ、古い位牌を整理処分するに当たって、
必ず先に「〜〜家先祖代々」という位牌を新しく作って
開眼供養をしてもらっておきましょう。
つまり、それまで個人の戒名等でお祀りしていたものをまとめて
先祖代々という形を取ってお祀りするわけです。

この先祖代々の位牌を作っていないと、
古いお位牌の先祖たちの行き場所が無いということになりますから、
これは重要なことです。


 Q. 真言宗でよくあげるお経はなんですか?


A.  真言宗の寺院などで勤行や供養を行う時に読誦するお経は
「般若理趣経」と言うお経です。
このお経は普通の仏教のお経の読み方(漢字の呉音、南方の音)とは違い、
漢音という音で読みますので、ちょっと聞きなれないお経です。

真言宗ではこの経を大変尊び、本尊の御法楽や御祈祷、
または靈の供養などの時にはいつもこのお経をあげます。
ただ、このお経には密教の深秘が説かれており、
内容も一般在家には難しいので、
得度した出家用のお経というところでしょうか。

その他には、「観音経」「般若心経」「九条錫杖」「梵網経」
「般若心経秘鍵」「舎利禮文」などが挙げられます。

一般在家用としては、「観音経の偈文」や「般若心経」などが
適していると思います。


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Q. どの真言が一番効果がありますか?


A.  どの真言が一番効果があるとは一概には言えません。
各個人の因縁と力量、修行の力によっても違ってくるでしょう。
一般に、自分に縁のある仏様の御真言が
一番効果があるのではないかと思います。

例えば、前世である仏様をずっと信仰して、
その御真言を数多くお唱えしていたような人ならば、
今生でそれほど努力しなくても御真言の力が発揮できると言うことも
あると思います。

その逆で、全然縁が無い御真言は、
たとえお経の中で素晴らしい効果があると説かれていても、
その効果を開顕するためには、
かなりの時間と労力(何万回もお唱えするというような)を
必要とするようです。

ですから、その人の因縁と力量、修行の力によって
差が出てくるわけです。


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Q. 輪廻転生はあるのですか?


A.  これは古代インドの思想よりおこっています。
生まれ変わり死に変わりするという思想ですので、
死んだ人にその体験を語ってもらうことも出来ませんから、
結局証明の仕様が無いわけです。

ですが、輪廻転生は仏教の思想の基礎にあるものですから、
これを信じていないと仏教の思想そのものが成り立ちません。
ですから、仏教信者ならばこれを、
つまり、生きとし生けるものは輪廻転生するという
仏様の言葉を信じていただくよりほかありません。

えっ、私ですか。もちろん信じていますよ。o(^o^)o


Q. 死んだら皆仏になると聞きましたが?


A.  死んだらみな仏になると言うのは、
俗世間の巷でそういう言い方をするだけのことで、
この場合の「仏」が意味しているのは「死人」と言うほどの意味に過ぎません。

仏教で言う「仏」とは、
悟りを開き三界を解脱した超越的存在のことを申します。
ですから、死ぬことによって仏になることは出来ませんし、
仏になるためには生きていることが条件です。
(死んだら修行が出来るかどうかわかりませんからねぇ。(;^_^A)

また、よく「迷わず成仏してくれよ。」などという言葉を耳にしますが、
この場合の成仏も「仏になる」と言う意味ではなく、
「迷わずに、速く次に生まれるべき世界に行ってくれよ。」
と言うほどの意味だと思います。


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Q. お経を聞いて、私はチンプンカンプン
なのですが霊は解るのですか?


A.  お経というのは音読み、つまり古代の中国語の発音で読んでいるわけです。
ですから、よほど勉強していたり慣れている人でないと、
聞いてもわからないのは当たり前のことです。

(でも二宮金次郎は、或るお堂から聞こえてくる観音経の読経の声を
完全に理解して感動したと言う話を聞いたことがあります。(;^_^A )

ですから、私は亡くなった故人の靈がこのお経を聞いて意味が解るとは思えません。
では、なぜ亡くなった人の為にお経をあげるのでしょう?

実は、これは亡くなった人に直接お経を聞かせているのではなく、
お経をあげる対象は、そのお経をお説きになった仏様なのです。

「御法楽」と言う言葉を聞かれたことが無いでしょうか?
法楽とは読んで字の如く法の楽しみと言う意味ですが、
仏様や悟りを開かれた聖者方は真理の法を聞くことによって楽しみ
その心を喜ばすものなのです。

と言うわけで、お経と言う真理の言葉が書かれたものを読誦して
仏様にお聞かせすることによって仏様を喜ばせることが出来るのです。
仏を喜ばせるという行為には大変勝れた功徳があります。

この功徳はお経を読んでいる坊さんはもちろんのこと、
坊さんを招いてお経をあげて貰った施主も功徳を受けるとされています。
この功徳を「回向」と言って亡くなった方の功徳に振り向け、
その次に生まれるべき世界がより良いものになるようにするのです。

ですから、亡くなった人を供養することを「回向する」という言い方を使うこともあります。
要するに《読経→仏様が喜ぶ→功徳が生じる→功徳を回向する→
故人の功徳が増加する→よりよい世界に生まれることが出来る、
もしくは仏道修行するときに仏の加持護念が得られる。》と言うような
図式が出来上がってくるわけです。

この故人の功徳を増す為には、読経(大乗経典の読誦)ももちろん素晴らしいですが、
子孫が行う善行を故人に回向してもよいのです。
どんな善行でもよいのですが、
例えば、毎朝公園のごみを拾って捨てるという行為(善行)を行うとします。
その善き行いには功徳というものが生じます。
この功徳は、そのままにしておけば
もちろんその人の功徳になります。
しかし、それを譲ることが出来るのです。
そう、その功徳を故人に譲るわけです。

具体的には、この善行をやり終えた時に
「南無大師遍照金剛。この〜の行為の功徳は私の先祖の某の為に回向し奉る」
と言うような感じで心に念じれば良いと思います。

どんな善行もこの方法で回向できますよ。o(^o^)o
がんばって下さい。


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Q. 厄年なのですが、厄払いをしたほうが
     良いでしょうか?


A.  厄は迷信であると思われている方は多いと思いますが、
私は厄払いはやっておいた方が良いように思います。(;^_^A

実は、かくいう私も昔は全然信じていませんでしたし、
ただの迷信だろうぐらいにしか思っていませんでした。

ところが以前、高野山の奥の院で勤務していた時のことです。
奥の院での坊さんの業務は、
靈の回向、護摩祈祷、お守り売り、清掃、供養や
祈祷の受付などがあります。
その中の靈の回向や護摩祈祷は当番制でやっておりましたから、
普段の業務は、供養や祈祷の受付のカウンターに坐って、
信者様方との対応が主となります。

で、供養を受け付けると、
その故人の戒名や没年月日、享年、俗名などを紙に書いて、
お経を読んでいる坊さんの所へ持っていくというようなことを
毎日やっておりました。

さて、そのように毎日亡くなった方々の戒名などを書いているうちに
ふと、奇妙なことに気がついたのです。
それは、亡くなった方の享年何歳という部分なのですが、
どうも、ある一定の年齢に集中しているように思いました。

そう、男性なら42歳前後、女性なら33歳前後なのです。
このことに気づいてから、それとなく注意していると、
なんと、女性は33歳前後と19歳前後、
男性は42歳前後で亡くなっている方が大変多く、
また、60歳前後(つまり還暦)は男女共通で
亡くなっている方が多かったのです。
まさに、厄年の前厄、本厄、後厄に符合していたのです!!

このような次第で、その事実に気づいた時、
背筋がゾーッとしたのを今でも覚えております。
「こりゃー、厄年はあるな。」というのがその時の感想でした。

また、ご祈祷の受付の方で坐っていると、
もちろん、こちらはご祈祷ですから、厄除けなどの申し込みが多くあります。
そのときにいろいろなお話を信者さんなどから伺うことになります。

すると、やはり厄年には自分にこんなことがあったとか、
自分には無かったが妻子がひどい目にあったとか、
そういう話をたくさん聞くことが出来ました。

以来、結構テレビのニュースや新聞などで、
亡くなった方、事故に遭われた方、犯罪や事件を起こして捕まった方など、
年齢の部分を注意して見ておりますと、
なんと、やはり厄年の方が多いのです。

という訳で、私も42の大厄の時、前厄、本厄、後厄の三年間は
毎年神社仏閣に詣でて、厄除けの祈祷をしてもらうとともに
海外旅行を控えたり、積極的な行動を慎んだりしました。
また、慈善団体に寄付したり、なるべく善行を積むように心がけました。
そのように厄払いにはかなり力を入れたつもりでしたが、
小さなトラブルはたくさんあったように思います。

例えば、バイクに乗っているときに車と接触したり、
駐車禁止やスピード違反で切符を切られたり、
いつも余裕で路上駐車している場所で、なおかつ短時間の駐車なのに、
レッカー移動にあったりと、普段では考えられないほど運が悪くなったようです。

以上のように、特に私が感じたのは、厄の時は非常に運気が落ち込むということです。
厄払いにはかなりのお金と労力を使い、
これだけやれば十分だろうと思っておりましたが、
日常生活において運が悪い、ということまでは改善できなかったようです。

とは言うものの、大きな事件事故に巻き込まれること無く、
無事に三年間を過ごすことが出来たのは
神様や仏様のお蔭だと感謝しております。
(三年間、謹慎生活をしていたような…。永かった。(;^_^A )

絶対に信じろとは申しませんが、
厄払いは出来るだけやっておいた方が良いと思います。
また、一般的に厄年にはお金をたくさん使うことになるようですから、
厄年までに貯金して準備しておいた方が良いかもしれませんね。

なお圓寂坊は、従来民間で行われている方法などから
独特の厄除けの方法を編み出しました。
気が向けば公開することがあるかも知れません。(;^_^A


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Q. 仏教入門にお勧めの本が在りますか?


A.  仏教入門にオススメの本はたくさんありますが、
全部を紹介することは出来ません。
これについては、圓寂坊の書斎の方で一部を紹介しておりますので、
そちらの方をご参照ください。


Q. お坊さんは肉を食べてはいけないんじゃないですか?


A.  昔からの常識に坊さんは肉を食べることを戒律で禁じられている、
というものがあります。
私も大学に入るまではそう信じて疑いませんでした。

ところが大学に入り、仏教をお釈迦様の時代、つまり原始仏教の時代から
学ぶ機会を得て、正しい認識を持つことが出来ました。
結論から申しますと、皆様驚かれるかも知れませんが、
原始仏教や部派仏教などでは肉食は禁止されてはいませんでした。

(もちろん原始仏教や部派仏教などでも、
「坊さんに供養する為に殺した生き物の肉を食べてはいけない」
と言う戒律はありましたが、
坊さんに供養する目的ではなく、
誰かがが食べる目的で殺した動物の肉を
供養として受けて、食べることは禁じられてはいなかったのです。
その理由は下に述べるとおりです。)

肉食が禁止されたのは大乗仏教の時代になってからのようですが、
その理由は、やはり仏教には「不殺生」という戒律があり、
生き物を殺してその肉を食べると言うのはよくないという思想が
根底にあったからなのでしょう。
その他、仏教を大乗仏教の教学などから本格的に取り入れた
中国などでは、道教の影響もあって厳しく肉食を禁止したようです。
日本の仏教は主に中国仏教の考え方を踏襲していますので、
当然肉食は禁止という方向になったのでしょう。

(これは余談ですが、道教では服気法と言って気功のような修行法が
盛んに行われます。この服気法が高度な段階に達すると、
嗅覚などの感覚が非常に鋭くなります。
その為、なまぐさい物を食べていると、気を練っている時に
体中からその臭気が立ち上り耐えられなくなるということです。
ですから、気を練ることを重視する道家の法では、
本来「なまぐさ物」を食べないのです。)

本来仏教では、出家修行者のことを比丘(梵語のビクシュから来ています。
女性は比丘尼です。)と言います。
さて、この比丘の食生活は全て托鉢によって得るのですが、
托鉢は別名乞食(こつじき)とも言います。
今でこそ、托鉢する僧にお金をあげたりしますが、
本来は食べ物を直接、鉄鉢に入れてもらっていました。
乞食とは、つまり「こじき」。要するに人から余りものの食事をもらって生活していたわけです。

もちろん、その托鉢に行く家々は普通に暮らしている人たちの家ですから、
食事は普通の食事で、肉の入った料理ももちろんあったことでしょう。
また、余り物をもらうと言っても、どの家でもすぐに料理があるとは限りませんし、
くれない家もたくさんあったことでしょう。

さて、やっと食をいただけるという家にたどり着いて、
食を供養してもらう時に、もし料理に肉が入っていたらどうでしょう?
「私は肉を使った料理は食べられないので…。」と断るのでしょうか?
せっかくくれると言う料理を肉が入っていると言うような理由から断っていると、
次回から誰も食事を提供しようと言う人が無くなるのではないでしょうか。
タダで食事にありつこうとしてるんですから、贅沢は言えませんよね。
もらえる物はもらえる時に何でもいただいておかないと、
次回からもらえなくても文句は言えません。

ですから、常識的に考えても乞食している比丘が、
肉が入っていると言う理由で食事の提供を断るわけが無いし、
そのような不合理なことをお釈迦様がお決めになるわけがありません。

現に、古い仏教の形態を保つ南方仏教の坊さんたちは
肉を食べることに禁忌はありませんし、仏教信者達も同様です。
ですから、基本的に仏教では肉食を禁止してはいなかったわけです。
お釈迦様でさえも、お肉の入った料理の供養を受けられたことが
あったのではないかと思います。


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 Q. お葬式の時、何をやっているのですか?


A.  他宗のことは解らないので、真言宗に限って述べさせていただきます。
簡単に言ってしまうと、坊さんがお葬式でやっているのは「得度式」の作法です。

つまり、亡くなった人を得度させて新しく仏門に入らせるわけです。
この葬式の作法の中で、真言宗では亡者にいろいろな物をお授けします。
挙げてみますと、三帰依、五戒、法名(戒名)、三摩耶戒、五鈷、
両部秘印明、血脈などをお授けすることになっています。
また、仮位牌の開眼等も行います。

では、なぜ亡くなってから得度式を行うのかというと、「真言宗実践叢書」によれば、
『釈尊は、戒律の中に出家者、すなわち僧侶たるものは
在家の人々の葬式に関わってはならないということをはっきりと言っており、
従ってこの戒律に従うならば、僧侶が在家の人々の葬式をすることは許されないのであります。
そこで、第一の特色として、葬式を行う前にまず在家の人々を出家さす、
つまり、沙彌・沙彌尼にするということが基本とされております。』
ということですから、亡者を供養する為には得度が必須ということになるわけです。
でも、枕経や通夜なんかではもう拝んでますけどね…。(;^_^A
ま、とにかく亡者を供養する為には仏門に入っていただくということのようです。


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Q. 天台宗には千日回峰行がありますが、
    真言宗にもありますか?


天台宗の千日回峰行は凄い行ですね!私もちょっと憧れます。
で、真言宗にもそういう山々を歩き回って修行する行が無いかな、
と思って探してみたのですが、無いですね…。(;^_^A

と思ったら、なんとありますよ。\(^o^)/あれが…。
ほら、あるじゃないですか有名なのが…。
そう、お四国遍路です。
「なぁーんだ。」という声が聞こえてきそうですが、
お四国遍路をなめちゃいけませんぜ。
やり方ひとつです。やんわりと行えば結構楽なように思いますが、
厳しく調節すればとてつもなく厳しい行になりますからねぇ。
だって、もし一人で歩いて回るなら、40日前後でしょうが、
歩くのも大変ですし、毎日の宿の心配もしなければならないとか、
また、山ばかりでなく街も歩きますから、
いろいろな誘惑にあったりとかして、行になるんじゃないでしょうか。
また、何度も繰り返し行うことが出来ますし、
「同行二人」というお大師様の加護も得られます。(^-^)v
懺悔滅罪の為に行う行としては最適な行ではないかと思います。

かの千日回峰行の具体的な内容は、天台宗の行なのでよくわかりませんが、
結局、朝早くから起きて各峰々を巡り、そこにある拝所を順々に拝んで回るわけですよね。
また、千日間毎日やるという訳ではなくて、毎年何百日かずつ参り、
7年ぐらいで成満するという図式らしいです。

(大体、冬の雪深い山々を歩くことは不可能ですからね。
本当に千日間毎日やると、三年弱で終わるはずですし。
でも、7年目に堂入りと言う儀式がしんどそうですよね。(;^_^A )

また、このような大行は一人の力ではとうてい行うことは出来ませんから、
多くの人の手を煩わせたりすることになります。

結局このような苦行は懺悔滅罪の為に行うことが多いでしょうから、
お四国遍路のように参拝の範囲は広くても、
コンパクトにまとまって何回も行え、
また、あまり人の手を煩わせない行の方が
良いのではないでしょうか?
緩急も自在に調節できますしね。(^-^)v


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Q. お坊さんは税金を払ってないんですか?


どうも世の中には、坊さんは税金を払ってないと思っている人が多いみたいなので、
この場を借りて弁明しておきます。(;^_^A

結論から申しますと、寺の住職であれ役僧であれ、
個人的に宗教活動している坊さんであれ、
皆ちゃんと税金を払っています。(所得税はもちろん、府・県・市民税もね。)

よく、宗教法人には税金が課せられないから、
坊さんは税金を払ってないのでは?
という質問を受けるのですが、それは間違いです。
もちろん、日本の法律では宗教法人に入るお金に対しては税金がかかりません。
しかし、宗教法人から個人に支出される給料は、
ちゃんと源泉徴収されています。
会社法人が給料を支払う時に源泉徴収されるのと同様です。
かたや会社法人、かたや宗教法人という違いがあるだけです。
「住職」の立場というのは、会社法人で言うところの「社長」とほぼ同じで、
宗教法人の社長=住職とお考え下さい。

さて、会社法人では、もちろん会社から社長に給料を支払いますよね。
それと同様に、宗教法人であるお寺も、住職に給料を支払うわけです。
ですから、そこには当然所得税がかかることになります。

そして、所得が確定すれば市民税・県民税・府民税等もかかってきます。
これは、どのようなお寺もほとんど宗教法人の形態をとっておりますから、
同様であります。

(え?誰が住職の給料の額を決めるかって?(;^_^A
住職がお寺の収入から判断して決めます。)

ただし会社などと同じく、業績の良い会社は収入が多いので、
社長に支払われる給料が多いように、
収入の多い寺院の住職ほど、多くの給料をもらえることになります。
(でも、給料が多ければそれだけ税金も多くかかることになりますけど…。)

さて、会社法人も業績によって収入に格差があるように、
寺院にも収入に格差があるのは否めません。
ですから、都会などにある大きな寺院で檀家の数も多い所などは、
当然収入が多いので、
そこの住職は結構高額な給料をもらっている場合が多いでしょう。

(というか、税務署の方からそのように指導されます。
なぜなら、税金のかからない宗教法人に資金をプールしておくより、
住職や奥さんなどに人件費としてなるべく多く支払わせ、
そこに所得税をかけた方が、税収が上がりますからね。(;^_^A )

反対に、田舎などの小さなお寺で檀家の数も少なければ、
当然お寺自体の収入が少ないので、
住職のもらえる給料は格段に少なくなります。
こういう場合は税務署も相手にしておりません…。(;^_^A

(ですから、田舎の小さなお寺の住職は、
お寺だけでは食べていけないので、
学校の先生をしたり、役場や農協に勤めたりして
二足のわらじを履いていることが多いのです。(ToT))

さて、お寺というのはどんなに小さくても各々独立した宗教法人です。
この「宗教法人=寺院」は檀家全体で維持管理しているたてまえですが、
一般に代表役員数名で事務上の処理や法人の運営をやっております。
代表役員は「檀家総代」と呼ばれる人たちと住職がそのメンバーとなります。

ただし、宗教上の事については、素人(檀家総代達)は良く解らないので、
ほとんどが住職の独壇場である場合が多いようです。
もちろん、総代さん達の中にはいろいろな事を勉強しておられて
口を挟む人もいるかもしれませんが、ごく少数でしょう。
ですから、お寺の運営・寺務、維持管理は
ほとんど住職が一人で行っているようなものなのです。

お寺の収入のほとんどは宗教活動によります。
普通一般の寺院ですと、お布施、祈祷料、供養料、賽銭、
墓の管理費、墓地の永代使用料等等です。
これらは全て帳簿に記載され宗教法人に入る訳で、
住職のものになる訳ではありません。

このいったん宗教法人に入ったお金から、
寺院の運営・管理に必要な諸費用、
つまり維持費や人件費、雑費等が支出されるわけです。

因みに多くの場合、お寺の奥さんも寺務に携わっているので、
お寺から給料をもらっている場合が多いでしょう。
(でも、住職に比べると格段に安い給料となっているはずです。)

また、もしお寺が宗教活動とは別に何か事業を、
例えば宿坊をやっていたり、幼稚園を経営していたりすれば
恐らく、事業税がかかり、別会計ということになると思います。
(この辺は詳しくないので想像で書いてます。(;^_^A )


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Q. 同じ仏教なのに何故いろいろな宗派が
    あるのですか?

お釈迦様が教えを説かれた時には、
誰にでも同じ事を同じように解説したのではなく、
必ずその人に合った修行のやり方を洞察して、
方便を以ってお説きになったのでした。

と言うわけで、仏教には八万四千の法門があると言われます。
つまり、人それぞれ、性格や状況、または生活環境に合った方法で
修行をしていくべきだということです。
皆一律に同じやり方で修行をするのではないのです。

ですから、お経は必ず「如是我聞」という言葉で始まっています。
「私はこのようにお釈迦様から聞きました」という意味です。
皆それぞれお釈迦様から聞いた修行のやり方が違っていたわけです。

例えば山に上るときに、皆その頂上を目指して上るのですが、
頂上に到るルートはそれぞれ異なっても、
目指す頂上は同じであり、手段や方法はいろいろあっても
目的はひとつ、頂上に到れば良いのです。

杖を突きながらゆっくりと一歩一歩上って行くのが好きな人もあるでしょう。
駆け足で、険しいけれど最短距離を目指す人もあるでしょう。
また、途中まで車で行って、そこから鎖をつたって頂上に到るという方法もあるかもしれません。
中にはヘリコプターで一気に頂上へという人もあるかも知れませんね。
要は、目的地である山の頂上に着けばよいのです。

もうお分かりだと思いますが、仏教にいろいろな宗派があり、
それぞれ特色が違うのは、方法論の向き不向き、性格の適不適があるからです。
要するに、最後の到達点は同じですから、
自分に一番あった方法…つまり宗派を選択すれば良いのだと思います。


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Q. お坊さんに出すお茶菓子はどんな物が
   良いのでしょう。


一般に、月参りの時など、「坊主にはこれ」ということなのでしょうか?
お茶と和菓子でもてなしてくれる家が多いのです。
でも、私は甘いものがあまり好きではないので、
出された茶菓子に手を付けることはめったにありません。
お茶だけいただくことがほとんどです。

で、そんな時は必ず「お持ち帰りください。」と包んでくれるのですが、
実はこれがありがた迷惑なのです。(;^_^A
私もいろいろな坊さんと付き合いがありますが、
お茶菓子を喜んで持って帰っていると言う坊さんは皆無でした。
どちらかと言うと、やはり皆ありがた迷惑という感じです。

実は月参りでは十二〜三軒のお宅を拝んで回りますから、
各お宅でお菓子をもらって帰っていると結構な量になり、
かばんの中も、お菓子でいっぱいという状態になります。

また、持って帰ったお菓子も、自分で食べることはまずありません。
多くの場合は人にあげたりしてしまいます。
檀家さんの方では一対一でも、こちらにとっては一体多ですので、
どうしてもそういう結果になってしまうのです。
たとえ私が甘い物好きだとしても、
そんなに大量のお菓子を消費できるわけはありませんし、
糖尿病になっちゃいます。

なんか愚痴になってしまいましたが、
毎日毎日お菓子をもらって帰る身になっていただきたいです。
お茶菓子はいらないです。(ToT)

でもホント言うと、一番うれしいのは、
お茶菓子代として100円〜500円ぐらい包んで、
お茶と一緒に出してくれる家です。
そのお金でお昼ご飯ぐらい食べれますからね。(^^ゞ

また、この方式だと、「今度、坊さんが来たときにどんなお菓子を出そうかしら。」などと
心を悩ます必要もありませんし、お茶菓子を買うお金だってかなりかかるでしょう?
(恐らく一個だけ買うというのではないでしょうから…)
お菓子屋さんまで足を運ぶ手間と時間、そしてお金を考えたら、
そのほうが安上がりなのではないでしょうか?

以上は圓寂坊の独断ですが…。(;^_^A
そう思います。


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